瀧山寺の始まりは薬師如来
吉祥陀羅尼山薬樹王院と号し、本尊は薬師如来。瀧山寺縁起によれば、朱鳥元年(686年)奈良時代の伝説的な山岳修行者、小角(おづぬ)が青木川の滝壺から薬師如来を拾い上げ、安置するために「吉祥寺」という一堂を建てたのに始まると言われています。小角は自ら薬師如来像を彫刻し、その仏身に金色の薬師如来を納め御堂に安置しました。
比叡山の仏泉上人永救が奮う
やがて400年の月日が流れ、保安年間(1120〜24年)、比叡山で修行した仏泉上人永救(ぶっせんしょうにんえいぐ)が、仏法興隆のためこの地に来住。荒廃してしまっていた吉祥寺跡に再び霊場を建て、物部氏の外護により本堂を造営しました。
鎌倉幕府の恩恵で最盛期に
源頼朝の従兄弟にあたる寛伝上人は瀧山寺僧侶となり、縁故から頼朝公の厚い信仰を得ました。頼朝公没後には、菩提のため正治三年(1201年)頼朝公の3回忌にあたるこの年に惣持禅院を創建。本尊として頼朝公の御歯と御髪を納めた聖観音菩薩・梵天・帝釈天の三尊像を仏師、運慶・湛慶父子が造立しました。その後は承久の乱後に三河守護足利氏が壇越となり最盛期を迎えます。
戦乱の世が衰退をもたらす
その後、貞応ニ年(1223年)には足利義氏が本堂立替を援助し、泰氏・頼氏・家時・貞氏の歴代も所領や仏具を寄進、瀧山寺は足利氏の準菩提寺となっていきました。また、室町時代には三代将軍義満の援助により本堂が造営されたが、戦乱によって次第に寺盛は衰退していきます。
徳川家の信仰と擁護で再興
そのさらに400年後の江戸時代。瀧山寺は再び中興を見せます。比叡山天海僧正の命により住職となって入寺した亮盛上人は三代将軍家光公に見いだされ、寛永十八年(1641年)家光公より朱印地を拝領する。正保三年(1646年)には、家康公誕生の地の守護である瀧山寺隣地に東照宮が設立されました。
この江戸時代には「青龍院・玉泉院・常心院・浄蓮院・観量院・密厳院」の六坊があったが、明治初期に廃され、現在浄蓮院のみが瀧山寺本坊として残っています。
近代の歴史
時は流れ、明治六年(1874年)には神仏分離により瀧山東照宮は独立し、現在も別法人となっています。
また、平成二十四年(2012年)には、国定重要文化財に指定されている三門の落慶法要が執り行われました。